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クィアなユーレイの慰霊


クィアなユーレイと目が合った。気がする。ただの思い込みかもしれないけれど。私が過去を学ぶたびに、その気配は濃厚になる。本を読むたびに、映画を見るたびに、歌を歌うたびに、歩くたびに、ふとしたときに現れる。


 ユーレイを…つまり今までに生きて死んでいった過去の人たちを勝手に「クィア」という軸で語っていいのかという気持ちはつきまとうが、時代的に、社会的に、制度的に、あらゆる条件において言葉を持ち得なかった人びとの中に、自分のような存在がいたのではないかとつい想像してしまう。制度によって、性によって、からだによって、抑圧され、形を固定され、自らも周囲も呪い…ただ生き延びるためにみずからの形を変形させ(られ)ながら、生きて死んでいった人たち。


 そんなユーレイたちについて思いを馳せるたびに、その人たちを成仏…とまで大それたことはできなくとも、弔いたいと思ってしまうのだ。弔うということを言い換えると、慰霊、またはユーレイのエンパワメントをしたいという感じかもしれない。


 そんなことを考えながら、最近トーチWEBで「線場のひと」という漫画を描き始めた。漫画では実際の史実を舞台にしており、そこに居たかもしれないクィアな存在を描きこむことを試みている。描き始めて発見した自らへの問いの一つが、ユーレイのエンパワメントが現代を生きる人びとのエンパワメントになり得るのか、ということだった。当時の歴史を、人々の置かれた状況を知れば知るほど、暗澹たる気持ちになる。現代もけっして手放しに良い時代だとは言い難いが、それでも、過去に比べるとより良い方向に向かっている(はずだと信じたい)。そんな中で過去の人々の暮らしを描くことは時には苦痛を伴う。今よりも横行していた差別的な言動や行動を時代の描写として描くことが、差別の再生産に繋がってしまわないだろうか、または辛い展開が続くことの書き手と読み手への負荷…など悩むことは尽きない。


 それでも、死者のエンパワメントがしたい。いま私が立っているこの足元にある、土の、地の、歴史の蓄積の先にある人々の生について知りたい。より良い未来を求めるために、まずは無視できない「過去」を遡ること、それが回り回って今生きている人のエンパワメントにもなることを願っている。



このテキストはユリイカの巻末ショートエッセイ「われ発見せり」に載せるつもりで書き始めたのだけど文字数がうまく収められず、かわりに庭について書く事にしてお蔵入りになったのでテキスト自体の慰霊(?)というか成仏のためにここに載せました。なので文体が少しよそ行き・・・。

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