時折、展覧会ではガラスのショーケースの中に手紙が並んでいる。アーティストの往復書簡が作品と共に陳列されている。個人的に手元に留め置いていたはずの書簡が、公の展示室に公に向けた資料として展開され、言外にアーティストの多面性とその対話相手との関係を浮かび上がらせる。これらの多くは研究の成果を感じさせるが、作品や本人にとっては手荒く余計なことと言えるかもしれない。いずれにしても往復書簡は、→1対1←の直線的で双方向的な対話を図るものであり、そこから逸話や金言を引き出すことで個人を際立たせ、対話相手の立場も相まって作家性を力強く担保する。
今を生きる私は、誰かと言葉を交わすことによって、私個人の作家性を強化して生きていく必要があるのだろうか。私とあなただけの世界を築く以外の、なにかが入り込む余地を残して対話する方法はないだろうか。◯的に〜的に、もはや→双方向←ですらない、旅行雑誌の航路地図のように四方八方に矢印が飛び交う←←↓→↑←↓↑コミュニケーションが起こせないだろうか、とぼんやり考えていると、交換日記さーくる?なるものが思い浮かんだ。
このことを思い浮かぶに至ったのは、小宮りさ麻吏奈さん(以下、まりな氏)から
「クィア・アート・リサーチをしませんか」
と提案があり、方法を模索していたからに他ならない。トークにインタビューにZINE、展覧会やイベントができるね!と草の根アーカイブ活動への妄想がふくらみはしたものの、冷静にクィアという言葉をスコープとしてアートをみる時、その方法論から考えて直してみたいと思った。何より私たちはアーティストで、研究機関に所属しているわけではない。独自の研究組織をつくるところから始まるのだ。
(以下、しばしば当事者性を有するフェミニズムとクィア研究に立脚あるいは呼応する芸術をフェミニズム・アート、クィア・アートと呼ぶ。)
日本のアカデミックなクィア・アート研究は、フェミニズム(・アート)を起点とした研究者の手で進められてきた側面が大きい。研究の成果は数々の良質な寄稿や名著になっているが、美術を志す学生に教養として広く行き渡ってきたとは言えない。じっさい、2010年代前半、東京芸大を中退するまでの六年間、目を皿にしてシラバスを眺め、授業を選んできた結果、ジェンダーやクィアといったキーワードが当てはまる授業は、エイズ流行下でのゴンザレス=トレス、デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ、ロバートメイプルソープ作品を概観する回と、三島由紀夫の「憂國」を分析する回、中国工芸史で五分だけ馬六明のパフォーマンスが紹介された回くらいなものだった。(本来なら入りたい研究室や師事したい先生など具体的な目標を持って就学先を決めれば、期待と実態のずれに違和感を先鋭化させることなく研究に励めたのだろうが・・・。)
そんな環境でもフェミニズム・アートやクィア・アートに触れるきっかけを得られたのは、高三のころ師匠が北原恵さん著『アート・アクティヴィズム』とその続編『撹乱分子@境界ーアート・アクティヴィズム2』を手渡してくれたからだ。グローバルな視点での人権意識や抗議活動を反映させたアートへの知見はこの本から学び始めた上、初めて読んだ現代アート関連の本がこの二冊で、もはや教科書を超えてバイブルである。北原恵さんの著作では、幅広い人種やジェンダーに属する作家が取り上げられており、フェミニズム・アートとクィア・アートの親和性と複合性がうかがえ、互いの理論が呼応することで新しい作品や理論が生み出されてきたことが手に取るように感じられる。そうした観点から本稿ではフェミニズム・アートとクィア・アートを並記しているが、+や&で結ぶ機会が多いからこそ、フェミニズム・アートとクィア・アートは似て非なることが省かれ、一枚岩に語られるきらいがある。
このことへの言及は、近藤銀河さんのNOTE「展覧会「彼女たちは歌う」歌を聴き議論をしよう 抹消に抗う越境が抹消するものと、置かれた状況の希望と絶望」を参考にしたい。
銀河さんと自身の立場を一にしないとしても、この展評には大きく頷けるし、気づきをもたらしてくれる。展覧会について感じたこと、そのほかダムタイプやバトラー、ターリさんへの言及においては同意!!!である。忘れたくないことは、フェミニズムとその身体性を重要視することはクィアネスを内包することとイコールではなく、マイノリティ=女性差別への問題提起の視点は、他のマイノリティへの差別、例えばSOGI差別、エイブリズムへの視点をそれだけでは含みこまない。配慮の網羅などできないし、立場によるそもそもの特権性は避けられない。その前提に立って今一度フェミニズム・アートとクィア・アートを+や&で結んでみる。
言説上の分断とは異なり、先人たちの努力の恩恵を受けるかたちで、私(たち)は流れ藻のように活動している。しかし、ゆらゆらと根を張らず、定義からはみ散らかしながら活動していくことは、歴史にとって都合が良くないらしい。あるアメリカの大統領が「歴史は一冊の本」と言ったが、歴史は一冊にまとまる前提があり、一本のリニアな時間軸の元に整理整頓するのが常態化している。これに対し、まりな氏との会話で幾度となく交わしてきたように、自らの手でこぼれ落ちたものを集めながら、余計なことも含めながら書き記すことを通じて、クィア・アート・リサーチ、クィア・アート・アーカイブが実現できるかもしれないと考えた。事実、クィア・アートは歴史の読み直しや再発見によって連なってきた。
クィア・アート・リサーチをあえて定義するとすれば、広義にアートの歴史を編み直す試みで、これまで十分に検討されていない作家や作品について触れることはもちろん、想定されてこなかった他者を含みこんで捉え直す試みといえる。私たちがアートを想像するとき、真っ先に思い浮かぶように教育されてきた「先人」「巨匠」「重要な作家」を疑い直す試みでもある。
狭義には、日本という地域性においてリサーチ可能なのか、ということを探る。クィア・アートという枠組みがすでにトランスナショナルに展開していることに異論はないが、明治以降、日本のアートが西洋中心的な技術の受容やカテゴライズに適応してきたことと同様、日本におけるクィア・アートやフェミニズム・アートもまた、欧米圏から輸入してきた作品の系譜や理論構造を進んで受け入れてきた。作品が日本の地域性と切り離せないものであっても、輸入した理論を積極的に適応することで見落としてしまうものはないか、仔細にみていく必要がある。また非白人圏の「先進国」で、「単一民族国家」的な幻想を持つ日本固有の現状や東アジア地域での日本の立ち位置など、より交差的にコンテクストを判断していく必要もあるだろう。
構想約一年?まりな氏と、また浜崎史菜さんにも対話を重ねた。彼女たちとの交流を通して、私はタンスの奥に大切にしまいこんできたお気に入りの服を再び着てみる気持ちになれた。それはつまり、現在の社会構造のなかでうまく生き伸びようとすると離れていく意識と行動を取り戻すことだーージェンダー研究への取り組みに教授の理解を得られなかったことから/専門家でないと語ってはいけないという思い込みから/ジェンダーコンシャスでいると仕事にならずセンサーをオフにすることから/ジェンダーロールを着せられたり、現場で「紅一点」が日常茶飯事なことに目を瞑ることから/目の前の現場だ経理だ家事だ〜とフリーランスな「自立」生活に追われ、丁寧な思考をおざなりにしていくことからーー。
どこか嘘くさいルーティンから、パンデミックが訪れ仕事が強制的にストップしたことで、徐々に解放されていくのを感じる。さらにパンデミック下での生活の統制はどこかアートと切り離して目の端に追いやっていた社会問題が自分ごとに感じられる。震災を取り巻く人災やコロナ禍を取り巻く人災に、性とアートも密接にからまっているのだ。10年前の震災のとき、無力感と共に、アートとは何か、アートに何ができるか、と考えていたひとたちの気持ちが少しだけ想像できる。
私たちはこうした状況の変化に、何を考えるのだろう?
FAQ?は、疑問を書き出すコーナーであり、現状にF××K?を突きつける向きであり、Feminism And Queer(Questioning)?を考える試みであり・・・色んな言葉のポリフォニーとして存在させたい。そこでは〈Alternative - Queer〉〈Feminisim - Feeling〉〈Affirmative - Qualia〉と渦を巻く言葉が呼応していく。
FAQ?がどんな風に航行するかはこれから決めたい。オフラインでのイベントもやっていきたいし、あたらしい書き手にも出会いたい。SNSはゾーニングが難しい一方、アートを中心にゾーニングされている日本語のWEBメディアは数少なく、特に作り手主体のものはなかなか見受けられないため、そうした実験場としても解放していきたい。現在進行形で先立つ存在は、まりな氏も寄稿していたMultiple Spiritsあたりだろうか。結局薬局、固有の検索ワードにかかるブログや誰かがPDFで残してくれた論文から気づきを得ているのが現状で、そうした漂流サイトを見習い、手入れされなくなっても漂っていける場所にしたい。
ん〜とは言っても!先の世界にこの時代の往復書簡やら交換日記は残るのだろうか?サービスが終了すれば消えていくのだから、やっぱり紙なり石なり、FAQ?も物質として残していきたい。
2021.05.02 KANAE
P.S.
今は緊急事態宣言下で20時にハンバーガー屋も閉まるご時世。18時に打合せを兼ねてレストランに入ったがビールが呑めなかった!五輪中止、入管法改悪反対などなどが叫ばれている真っ最中。現政権下での失政がこれでもか〜!と吹き出している(まるでスプラッター映画!)。「アート枠」で参加しているMedia Ambition Tokyo 2021の会期も延期になったり。Amazon Primeで始まった「キコキカク」YouTube特番に出たりして。これメジャーにクィアな試みだと思った。そうそう、これまた私のバイブルのような作品、ダムタイプの「S/N」がVisual AIDSでオンライン上映されてる。ICUで観た時、アイラインが黒く流れるほど泣いたなぁ〜芸大在学時「S/N」を呼びたかったけれど実現できなくて〜(涙)。それが今は自宅で見られる。SNSは疲れるけれど、オンラインメディアが普及した恩恵を受けているなぁ・・・と感じる今日この頃。
谷川 果菜絵 / KANAE Tanikawa
アーティスト・デュオMESの片割れ、野良リサーチャー。
北海道富良野市生まれ、東京在住。
16歳のときフェミニズムの思想・運動について師匠から啓蒙を受ける。
専攻は芸術学だったが、演劇活動を経て、アーティスト・チームMESを結成、活動中。
Comentários