中学生の時に走れメロスの感想文の発表会があって、みんながメロスについて書いた時にわたしはセリヌンティウスについての感想文を書いた。
みんなの発表を聞きながら、自分の発表をするのにいつになくドキドキした。授業後に先生からめちゃくちゃ褒められた。授業で褒められたことなんてなかったのですごく記憶してる。
熱血みたいな先生で、別の時に「ちーたんは大学生みたいな視点なんだよね」と言われた。
当時姉が大学生だったし教育学部に居たこともあり「姉の話を聞くと先生たちがどういう気持ちなんだろうみたいなことは考えます」みたいなことを言った記憶がある。
記憶の連想で、小学5.6年生の時にクラスがすごく荒れた。担任がクラスをまとめられずに学級崩壊が起きた。わたしもすごく荒れてた。
あの時の担任は、小学生に対して「僕ちゃん」だったなと今にして思う。「僕ちゃん」のケアを小学生が出来るわけないしする必要もない。「僕ちゃん」に対してわたしはその時既に嫌悪感があったんだと今思う。
それを更に遡ると、わたしの幼少期の出来事に出くわす。
あの時に「嫌だ」と思わない手段は、自分の中から自己の視点を動かすこと、ある種幽体離脱のような、解離性同一性障害の症状のような、多重に人格を形成するみたいなことだったのかもしれない。
でも未就学児だった年齢で、そもそも人格が出来ていないのに多重に人格を作ることもできず、幽体離脱のように「自己の視点を少し動かす」ことでその時を逃れたんだと思う。
その辺りでわたしは三つ編みとかしてた髪をバッサリ切ってくれと親に頼んだし、小学校で黒いランドセルを選んだ。自分が女として生まれたことは違うんだと思った。
多分平均的な自我の形成の時期に「自己の視点を少し動かす」を先にやってたのかもしれないと思うけど、当時のわたしの心理や人格のコアはわからん。
交換日記4の谷川さんの記事で、イトーターリさんのインタビュー記事のリンクを載せてくれてて、3月頭の”熟睡”上映会で”Dear Tari”を見て、『わたしは誰ですか』と自問するターリさんのパフォーマンスが胸に刻まれてる。
わたしは「僕ちゃん」に対する嫌悪があることを、本当に大学生になってから、卒業するまでの間でやっとそれがわかってきた。女子大だったのも大きかったと思う。
まずは自己のケアをしようと思った。自分が何に対して怖かったのか、嫌だと思ったのか、当時のわたしに寄り添うことも「自己の視点を少し動かす」ことだと思う。
あの時に幽体離脱した自己と、何年も経った先の自己が重なる。視点を動かすことは、「時間」の流れの中で変化していくわたし、人体の構造物の代謝で骨まで過去のわたしとは別の構造物になること、でも過去のわたしもわたし自身であることを「見ること」が反射して提示してくる。
わたしは「僕ちゃん」に対するケアはしたくないと思って大学を卒業してから生きてきた。事あるごとに考えてる。人間にケアは必要だけど「僕ちゃん」へのケアは「女性らしさ」を求められているように感じる。
子どもの絵画教室で働いて、週に1回子どもたちと会ってる。ケアワークの一種だと思ってる。「視点を少し動かした」当時のわたしと同年代、それ以降の人たちと会ってる。
当時のわたしへ視点を少し動かしながら、大人になったわたしの視点からも、全くの他人である子どもたちといろんなことを共有・交換する。
みんなそれぞれいろんなことを話してくれるけど、やっぱり他人だから——それは例え家族や血縁だとて同じで——全てを共有することはできないけれど、毎週を楽しみに来てくれる人たちが居て、わたしは毎週ヘロヘロだけど、「女性らしさ」を求められるケアとは違う。当時のわたしが大人になってできる手段のひとつのように思う。
現在わたしの範囲の中で起きてる物事の問題は、「僕ちゃん」への嫌悪からバタフライエフェクトよりも少し大きな効果——カモメぐらいか——から起きているのかもしれないと考えてみた。
もしわたしが「僕ちゃん」へ一線を引かずに居ることができていたら、なにか違う事象に変わっていたかもしれないと思った。
今起きているわたしが嫌だと思っている物事は、巡り巡って自分の気持ちからやってきたのかもしれないと思った。
でもそんなことを考えてる今のわたしも、当時のわたしが「視点を少し動かす」ことをしたのと同じような振る舞いをしているのかもしれないとも思う。
だとして、今起きてる物事がそこから巡ってきたのだとしたら——今起きてしまった物事をどうにかする手立てではないのかもしれないけれど——わたしはこの「僕ちゃんへの嫌悪」から一歩踏み出す、突っ込んでみる必要があるんだと思う。
「僕ちゃん」のケアをする気はない、それはわたしがいちばん嫌だと感じる「女性らしさを求められる」ことだから。もしかしたらこれは「女性らしさ」から一歩踏み出すことなのかもしれないし、あるいは自分の「女性らしさ」をちゃんと自分のものにするためかもしれない。
当時のわたしの「視点を少し動かす」前に戻ることはできないし、一緒に歩んできた今のわたしが居るから、その先に突っ込んでいくことが巡り巡ってわたしのパーソナルスペースを助けてくれると思う。わたしが居るからわたしが大丈夫だと思いたい。
2022.4.10 まだ日が出る前の5時頃に 鈴木千尋
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