今年の初夏、婚姻届を区役所に提出した。
2018年から継続している「庭」を作るプロジェクトの一環として。
プロジェクトは「繁殖する庭」と名付けていて、私(小宮)と鈴木千尋という2名のアーティストによるもので、以下のような試みを行っている。
繁殖する庭
この「繁殖する庭」というプロジェクトでは、建築制度と婚姻制度、そして性によって規制された3 つの「規制された家(庭)」を扱う。
建築基準法によって再建築が不可能とされている空地を借り、そこに建築物である「家」ではなく「庭」を作る。
「庭」という漢字には、もとは「場」という意味があり、「家庭」という文字には、夫婦・親子などが生活を共にする小集団である家族がすむ場という意味がある。
小宮も鈴木も、異性愛規範から逸脱した、「クィアネス」を抱えるアーティストである。
現行の建築基準法の規制により家を建てることができない「再建築不可の土地」と、日本の結婚制度で規制されている「同性による結婚」という、2 つの制度の間で「規制された家(庭)」を浮かび上がらせるとともに、そこからこぼれ落ちたものたちが、「家」が禁止された場所で「庭=場」を作ることを模索し、試みる。
現在、このプロジェクトは映画という形で発表し、その後は、プロジェクトの軸としてある「家」の新しい形を模索するプラットフォームとしての機能を持たせたいと考えている。
話を婚姻届に戻すと、
役所や行政、それこそ学校など、公的な振る舞いを求められるような場所にいくときはなぜかいつも緊張してしまう。
別に悪いことをしているわけではないのに、自分がそこから排除されるんじゃないか、という不安が頭の片隅に常にあるためだと思う。
自分が何らかの規範や多数、公約数、公…、とされているものから外れてしまっているという刷り込み、いつも間違ってるような気がしてしまうこと、何も悪いことはしていないのに、何らかのうしろめたさをなぜか感じながら生きているということを、区役所のような場所に行くと気付かされる。
しかも、今回は婚姻届、それも、同性同士の婚姻届を、不受理になると知っていながら提出するために区役所に来たのだから、より一層うしろめたさを感じざるを得ない。
受理されないということで、拒絶される体験をすると分かっていながら市役所へ向かう。
緊張しながら発券機で番号を発行し、呼ばれるのを待つ。
窓口に行く。
「今日は?」
「婚姻届を…」
「…」
「…」
窓口の方が届けを確認し、同性同士の婚姻届は受け付けることができないのだと申し訳なさそうに伝える。
家族になりたい、という場合は少しでも年上の方の戸籍にもう片方が入る方法はあるが、そうすると今後法律が変わって同性婚ができるようになった時に結婚ができなくなってしまう。
まだ若いし、ゆっくり考えて、いい方法を選択してもらえれば。
持ってきてもらった婚姻届を受理することはできないが、一度窓口で受け取り、正式に手続きをすることで、不受理届を返送することはでき、その不受理届に対し不服申し立てをすることで裁判をする方はいる。
と、終始丁寧に、気遣いをしながら話してくれ、拒絶されるのでは、とこわばっていた体から、拍子抜けするように力が抜けていく。
態度として拒絶をされないということだけで、こんなにも安心できるのか、と驚く。
改めて、自身がいかに拒絶と、その防衛を前提にして生活をしてしまっているか、ということを考えさせられる。
ー
結婚については、
ここまで書いてきて前提を覆すことになるかもしれないが、私たちは、いや、少なくとも私は、別に結婚がしたいわけではない。
むしろ、結婚はしたくないと思っている。
理由はいくつもあって、「結婚」という制度自体が異性愛規範や家族、家庭を前提に構築された制度であるということもそうだし、そもそも特定の他者と固定された関係を結ぶという行為自体が慣習的で制度的なものなのではという懐疑があること、ほかには、自分に属性やタグが加わり、そのタグがついた状態でのコミュニケーションが一生ついてまわることの生理的な受け入れ難さ、、など。
なのに、今回婚姻届を出したことの理由、これはシンプルに、やはり選択をする権利をもってしかるべきだと思うからだ。
つい最近も、LGBTは種の保存に背く、という自民党議員による発言もあったが、そういった発言や思想、生殖至上主義によって人間に価値づけをし、権利を剥奪するというような出来事に対して、きちんと反抗しているということを示す一つのアクションとして、婚姻届を出した。
権利がなければ選択や自由も得られないということ、権利が与えられた上で、「私は結婚という制度は選択しません」と言うために、自分は庭を作っている。
婚姻届を出すことは、おそらく今後の人生ではない可能性が高いので、出した時の状況や自身の心情などを、まさに「日記」的に記録しておきたく、今回は記してみた。
P.S.
子供を持つということの、誕生ということの圧倒的なまでの善性と、
疑う余地のなさ、はいったいどこからくるのだろう。
それが反転した際の圧倒的なまでの暴力、圧力、重力。
そのことについてはまたいずれ書きたい。
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